あれから丁度一ヶ月が過ぎた。何もない砂の地面をペラペラな藁のサンダルでキエンは朝から小屋の周りを走っていた。
「はぁ…はぁ…はぁ…ふぅ~」
「ワオーーーーン!」
一時間は走った気がする、それなのにクウは元気に飛び跳ねている。限界を迎え膝から崩れ落ちたキエンは最後の力を振り絞り仰向けになる。
全身の毛穴という毛穴が開き切っている気がする、だが喉だけは張り付いてうまく呼吸ができない。完全に無防備なキエンの顔面をクウが舐め回す。軽すぎて指先にすら力が入らないキエンは抵抗すらできなかった。あと数歩で小屋だというのに身体が言う事を聞かない。
視界が太陽を中心にぼやけていき、呼吸の度に肺が焼けるように痛い。視界はほぼ真白になり、次第に音が消えた。
(ヤバい、死ぬかも)
キエンの思考は止まりかけていた。残った力を振り絞っても声すら出せなかった。
(終わった)
キエンは自分の無力さに失望し死を待っていた。すると遠くから女性の話し声が聞こえてきた。
「大丈夫…………必ず……」
(だいじょ……うぶ?)
「キエン……迎えに来るからね……」
(俺の名前……迎え……母さん?)
ジョロジョロジョロジョロジョロジョロ
(なんか気持ちいいな。いや、苦しい。ん?)
「……っぷは!! なんだ、冷てえ?!」
「クウが騒がしいと思い来てみたら……お前さん死にたいんか?」
何が起こったか理解の出来ないキエンは意識が徐々に復活していく。誰かの指がキラキラ光り、それが濡れて反射する光がキエンの目を刺した。目を瞑り大きく深呼吸をした後、再度目を開けるとそこにはググの姿があった。
「ググだったのか……。ありがとう、まじで死ぬかと思ったぜ」
ググは布で手の水滴を拭うと、何かを包み大事そうに胸元にしまった。
「礼を言うならクウに言ってやれ、わしは様子を見に来ただけじゃ」
座り、舌を出してハァハァしてるクウはすごく笑顔に見えた。キエンはそんなクウの顔面をワシャワシャした後頭を撫でた。
「ありがとな、お前がいなかったら死んでたよ」
「バウ!!」
クウが尻尾を振りながら立ち上がった。キエンはクウが顔面を舐めてくると思い口を掴んで止めた。
「やめろ」
辺りが静寂に包まれる。雲の切れ間から日が差し、キエンは空を見上げながらググに話しかける。
「なあググ、さっき何してたんだ?」
「何の話じゃ?儂は来たばかりじゃぞ」
「あれだよ、さっき手に光ってる何か持ってただろ?あれは何だ?」
「はて?何の話かのお……意識が朦朧としていて幻覚でも見たのじゃろ」
キエンは記憶を思い返してみる。起きた直後、ググが何か持っていた気がして少し違和感を覚えたが、気にしない事にした。
ググは腰にぶら下げた二つの布製の水筒のうち一つを取り外すとキエンに投げ渡した。
「持っておれ、明日から稽古を始めるぞ」
「いいのか?!」
「本来はその為に来たんじゃ。今日は身体を休めておくのじゃぞ、明日から本格的に稽古開始じゃ」
「わかった」
用事が済んだググはノソノソと町の方へ戻って行ってしまった。姿が見えなくなるまでググの後姿を眺めていたキエンは、見えなくなると貰った水筒を一口飲んで立ち上がる。小屋で一眠りしようと振り返ると、小屋の目の前に大きな水溜りができていた。
「なんだ?」
右手に持つ水筒に目をやり、水溜りに視線を戻し無心で見つめた後、首を傾げた。
――――
キエンは何かの物音で目を覚ました。
スッ……ヒュンッ……ヒュンッヒュンッ……スッ……!
「……なんだ?」
小屋の外で何かを振り回す音がしキエンは扉を少し開き隙間から様子をうかがった。
「……誰もいない」
物音は止まない。音の出所が分からないキエンは首を傾げた。気になってしまいキエンは正体を突き止める為小屋の周囲を確認することにした。先程と変わらず正面には何もない。小屋の左右も異常はなく裏に回った。
ザッ……!
スッ……!
キエンは目撃した。
夕日を背に、ググは棒立ちしているように見えた。次の瞬間。瞬きをしたら見逃してしまうほどの速度で右足を踏み込み、右肩から一直線に放たれた突きは、音を置き去りにし空を斬り裂いた。
太陽は頭だけを残し、止まぬ風は日中とは違う形で体温を奪う。ググはゆっくりと体勢を戻し短剣を鞘に納めると、空を見上げ大きく深呼吸をした。
「キエン、体調はどうじゃ?」
キエンは肩をピクリと動かした。両腕を振りながらググの元へと歩く。
「だいぶ良くなったよ。それより何してんだ?」
ググは短剣を掲げ、眺めながら話す。
「そーかそーか、よかった……鈍ってないかの確認じゃよ。儂も歳じゃのお、今ので肩が痛いわい」
「怪我しないでくれよ、明日から教えてくれるんだろ」
ググは大きく首を縦に振り左手で腰に装備した短剣を抑えると、キエンに身体を向けた。
「日が落ちたら儂の部屋に来るといい、明日からに備えて準備でもするかのお」
「今じゃダメなのか?!」
「来ればわかる。待っとるからのお、あまり遅くなるんじゃないぞ」
そう言ってググは林へと消えていった。
キエンは小屋に戻り支度をしようとしたら、バスケットが置いてあることに気がついた。
「あれ、いつの間に」
中身を取り出し、冷え切った飯をカッ食らうと、昼間にググから貰った水筒の水で胃に流し込んだ。
「よし。遅いよりはいいだろ」
キエンは水筒を片手にローブを羽織り、クウの頭を撫でた。
「遅くなりそうだから留守番頼むよ」
「バウ!」
キエンはドア横に掛けてある角灯の、残り僅かな蝋燭に火をつけググの元へ向かった。